たちばなし

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人生を豊かにする上で大切な作品との向き合い方

この記事はTCU-CTRL場外乱闘 Advent Calendar 2019 - Adventar16日目の記事です。

前回の15日担当のうろん君の記事はこちら。

uronclock.hateblo.jp

 
私はサブスクリプションサービスを利用し始めると、その直後だけ利用してその先数ヶ月間無駄な月額料金を支払ってしまうことが多いので、こういった体感的なオススメ情報はありがたいですね。絵を描きながらとか、目と手が離せない作業をしながら受けられるサービスの情報とかあれば教えてください。
 
 
 

はじめに の前に

 本日、12月16日はアイドルマスターミリオンライブで皆さんおなじみの中谷育の誕生日です!おめでとう!
 

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これからも育の成長をサポートしつつ、どんどん前に進んで行く彼女に置いて行かれないようにしっかりついていきたいです。
 
よろしければ私が以前中谷育について語った記事も読んでみてください。カリスマ的魅力溢れるアイドル中谷育をよろしくお願いいたします。
 
 
 
 
 

はじめに

 昨今の若い世代の創作活動に対する意識の高さには目を見張るものがあり、今や多くの人が何かしらの形で創作活動を行っています。となると当然、たくさんの作品も生み出されるわけですが、そういった作品を見てこのように思った経験はありませんか?
 
 
素晴らしい作品だと思うけど作者の性格が嫌いだから作品を素直に楽しめない」
 
 
これは作品そのものが持つ性質を超えて、メタ的な観点から評価をしています。例えば、作者不明、出処不明、製作時期不明の絵画を評価する際にはほぼ起こり得ない評価方法であり、純粋な絵の評価とは言えないでしょう。それゆえ、このようなメタ要素を含めた評価方法は不適切とされることがあります。
 
ですが、私はそうは思いません。メタ要素は作品の一部であり、時に作品以上に作品を魅力的に感じさせる情報を秘めているのです
 
本記事では、このような考えに基づいた私の主張を長々とお話しします。お付き合いいただける方は、是非とも最後まで読んでいってください。
 
できる限り一般的でわかりやすい例を挙げたつもりですが、かなーり堅苦しい話になってしまったので面倒なので結論だけ聞かせろという方はまとめまで飛びましょう!
 
また、分かってる人にとっては当たり前すぎる内容にもなっています。それはもうどうしようもないのでご了承ください。
 
 

 

 
 

作品評価とメタ要素

メタとは

メタ(meta-)とは、「高次な-」「超-」「-間の」「-を含んだ」「ーを入れた」「-の後ろの」等の意味の接頭語。ギリシア語から。*1
 
 
 

メタ要素の定義

 というわけで、この記事で主題として扱う『メタ要素』について、定義をしたいと思います。ここではメタ要素を『ある作品、状況、環境等に対し、その対象世界の外側から関連付けることが出来る要素』として定義します。これではわかりにくいと思いますので、身近(?)なメタ要素の例を列挙してその用法や意味を感覚で掴んでもらいたいと思います。
 
・この小説は教科書に載っている偉大な人物の作品だから面白い
このイラストはフォロワーが何万人もいる人の作品だから素晴らしいのも納得だ。また、本人が1から描いたに違いない
・この脱出ゲームは素人の手作りだから、この謎の答えは単純であるに違いない
この対戦ゲームで現状一番人気で強いとされるキャラクターはAなので、Aの対策を軸に戦略を考える必要がある
人狼ゲームにおける、「Bさんは初心者だから嘘はついていないだろう」「Cさんは人狼ゲームをたくさんやってきた熟練者だから、まさかそんなヘマをやらかすわけがない」等の推理
・ポーカーにおける、「相手は絶対的な自信があるときにしか大勝負に出ない性格だ(ということを事前に知っている)から、今の相手の手札は弱い手札だ」という推測
・このアイドルのファンは過激な人間の割合が体感多いので、アイドル本人にもきっと通じる部分(原因)があるのだろう。
・この人のことはよく知らないが、好きなゲームに低年齢層から人気の高いものを挙げていたので本人の精神年齢も低いのだろう。
・このゲームは運営の姿勢が自分に合わないので素直に楽しめない
・漫画やアニメ、ドラマ等の登場人物による「これは漫画だから、この後には劇的な展開が待っているさ」というような発言
 
これらは全てメタ要素(メタ発言)の例です。なんとなく感覚を掴んで貰えたらこの記事で話す内容も伝わるだろうと思います。
 

 メタ要素の是非

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 先程、メタ要素の考えようの無い絵画の話をしましたね。しかし、私はそんな絵画など存在し得ないと思います。なぜなら、そのような作品を前にした時、誰もがメタ要素を考えずにはいられないからです。絵画に全く興味のない人であればそういうことがあるかもしれませんが、本記事では前提として、例にあげる『誰かが作品と向き合う状況』において、その『誰か』は作品を楽しもうとしていることとします。話を戻し、その人が絵画を見てその絵から感じられることを全て出し切ったあとには必ず「誰が描いたんだろう」「いつの時代の作品なんだろう」「どんな画材を使ったんだろう」のような疑問・興味が湧き出てくると思います。もっと言うと、「この不可思議な線はなぜ引かれたのだろう」「この実態があやふやな物体の色はなぜ紫なのだろう」「作者はこの線や色をなんのつもりで描き、なにを伝えようとしたのだろう」などと考えるかもしれません。それこそ、メタ要素です。メタ要素無しにその作品を楽しむことや考察することを満足に行うことはできないと言えるでしょう。
 
 もっと身近な例でも説明しておきましょう。皆さんは義務教育を受けてきて必要最低限の教養があるという前提で話しますが、学生時代に国語や現代文といった科目でこんな設問を目にしたことがないでしょうか。
 
 
作者の気持ちになって答えなさい。
 
筆者はどのような気持ちでこの文を書いたのでしょうか。○○字以内で答えよ。
 
 
 

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文章を読んでその内容について答える問題で、こういった類のものはかなりメジャーな問題だと思います。小学校から大学受験まで、多かれ少なかれずっと付き合うことになります。さて、この問題は純粋な作品の評価になっているでしょうか。否、これは『著者の心情』というメタ要素を作品の解釈・評価に取り入れています。評論や批評など、筆者の声がそのまま題材になっている場合は当然なのですが、物語や小説なんかでこの問いをするのは、その作品そのものの評価をする上ではナンセンスと言われそうなものです。ですがこれはあくまでも『作品を評価する際には作者など関係なくその作品そのものの良さを評価するべきである』という、昨今の人々に根付いた風潮に則る場合の意見であり、私の意見は違います。何度も言いますが、私はそうやってメタ要素を考えるところも含めて作品を楽しみ、評価するポイントになると考えています。
 
 教育課程の問題を取り上げてしまったので、まだ納得いかないという人も多いと思います。例えば「こんなの筆者の気持ちじゃなくて出題者の気持ちじゃん」「お前(出題者)が筆者の何を知ってるって言うんだよ」「自分の父親(作家)の作品が題材になってたから問題の答えを父親に聞いたら先生に教えられた答えと全然違った」というような、無能な出題者のエゴに付き合わされたという事例に関しては私も回答者側に同調します。しかしそれはあくまでも出題者のやり方が悪かったか、調査が足りなかっただけのこと。メタ要素を考察に取り入れること自体は悪では無いのです。
 「やり方が悪かった」「調査が足りなかった」とはどういう事なのか、詳しく説明していきます。極論を言ってしまえば、筆者の生い立ちや人生、(遺っていれば)本音を綴った手記等を調べあげて、限りなく真実に近い考察をした上で出題すればよいのです。また、筆者が生きていれば直接聞きに行けばよいのです。それが問題の信頼性を高めるために求められる調査というものであり、それが出来ないのであれば筆者を引き合いに出す問題など出題するべきではないのです。それがやり方の選択というものです。
 しかしこれはあくまでも極論。筆者は当然、ほとんどの読者は自分のことをそこまで調べあげてまで作品を楽しもうとするとは思っていないでしょう。そして私達も、そこまでしなくては作品を楽しめないという人も少ないと思います。一番大事なのは楽しむこと。そのために必要であれば、自分が納得するまでメタ要素を考えたり調べたりすればよいのです

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 さて、ここからが本題です。結局、 ""作品を楽しむ上で"" メタ要素を考えることは善か悪か。何度も言いますが私は善であると思います。むしろ、メタ要素を排除しなくちゃいけないという風潮を作る人こそが悪だとさえ思います。
 そもそも、なぜ「筆者の気持ちを考えなさい」という問題が生まれたのでしょうか?なぜ人々はメタ要素を考え出すのでしょうか?答えは簡単です。作品内で提示される情報を全て用いても明確な答えが出ない問題は無数にあるからです。小説なんかでは、あえて真実を仄めかしたり隠したりすることで読者に考察の機会を与えます。その手法により読者はその小説の世界により引き込まれる(読書を楽しめる)ことになりますが、往々にしてその答えは一意に定まりません。答えが出ないということは、ゴールにたどり着かないということ。人々はスタートからゴールまでの間のどこかで立ち往生したり、限りなくゴールに近い所まで走り続けたりしますが、筆者から解答を提示されるまでは永遠にゴールにたどり着くことはありません。その結果、筆者の思考までもを知りたいと思うのです。それは自然な流れであり、悪では無いでしょう。
 

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 次は芸術について考えてみましょう。これは文字媒体以上に無数の疑問が生まれます。「この絵に描かれる空はなぜ青いのか?」「この絵の空はなぜ青くないのか?」そんなもの、作者にしかわかりません。作者でもわからないかもしれません。「この曲は何を伝えたいのか」「この歌詞はどういう意味なのか」「どうしてこの胸像には目が存在しないのか」「この漫画はなぜこのようなコマ割りをしたのか?」……などなど。それらには全て、作者が込めた意味があるのでしょう。ひょっとしたら意味なんてないのかもしれませんが、それも含めて作者のアクションにより生まれた結果を私達は受け取ることになります。それに対して、考察を作品内だけで終わらせてしまうのはナンセンスというものです。そう思いませんか?
 
 
 この世界の作品というものは、ここで言うメタ要素というものを評価の枠組みに入れて楽しむように出来ています。なぜなら、この世のほぼ全ての作品と呼ばれるものには、必ず作者の名前が添えられているからです。そして作者が不明であるならば、『作者不明』とされるのです。逆に、メタ要素を完全に排除した作品を楽しむことを目的とした世界を想像してみましょう。誰が作ったものなのか、という事実に価値がない世界です。作品とは路傍の雑草のように、そこらじゅうにいくらでも、当たり前のようにあって、実質的には尽きることがない。作った作品は誰かの目に付くような場所へ放り投げたり、時代が現代であれば匿名投稿サイトのようなシステムがあって、そこへ投稿して不特定多数の目に触れることになる。しかし誰も、誰が何を作ったとか、そういうことは気にしないし、そんな情報は一銭の価値も無い。それが全く同じ文章でも、文字の羅列でも、何かの記号でも、絵でも、線の重なりでも、点の集合でも、素人がただ無造作に作ったものであろうと、どんな過去を背負った人が作ろうと、その作品が受け手に与えるものに差はなく、全く同じ文章であり、文字の羅列であり、何かの記号であり、絵であり、線の重なりであり、点の集合でしかないのです。そんな世界、つまらなくないですか?人は昔から今まで変わることなく、そう思っているんでしょう。だから私たちが生きるこの世界で、作品と作者の情報は必然的に結び付けられているのです。もう一度言います。作品におけるメタ要素を評価の枠組みに入れる行為は自然であり、善であると。
 誤解しないで欲しいのが、メタ要素を考えずに作品を楽しむことが悪だと言っているわけではございません。あくまでも、私たちが作品を楽しむことが第一であり、そのためにはメタ要素を排除してもいいし、そもそも最初から興味がなくてもいいのです。しかしそれと同様に、メタ要素を含めて評価することも間違いではないと、多くの人に認識してもらいたいという思いでこの文章を書いています。
 
 
 
 
 

様々なメタ要素についての主観的見解

 私の伝えたい作品におけるメタ要素について、だいぶ理解してもらえてきたと思います。ということで、ここからはメタ要素の例を再び持ち出し、その是非について考えてみたいと思います。
 ここでワンクッション置かせてもらいますと、これまで散々メタ要素は善であるという論調で話してきましたが、時にメタ要素は悪にもなります。ここでいう善と悪というのは、できる限り多くの人間が人生を楽しむ上でその助けになるものを善、障害となるものを悪と、私の主観で決めています。その視点も考慮しつつ、例を見ていきましょう。皆さんも自分の考え方でその是非を考えてみてください。
 
 

・この小説は教科書に載っている偉大な人物の作品だから面白い

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これは作者に着目したメタ要素ですね。特筆すべき点は、その作者が故人であり、偉人であることです。偉人はその出生から逝去まで、生涯を調べ尽くされていることが多く、その前提知識がある上で読むことで面白さに奥行きが増します。この例ではそんな高尚な楽しみ方というよりは、単に偉人だからという理由だけで評価を上げているようですね。実際に読了してみてどんな感想を抱くかどうかは本人次第ですが、本人さえ良ければこれは善のメタです。
 
 
 
このイラストはフォロワーが何万人もいる人の作品だから素晴らしいのも納得だ。また、本人が1から描いたに違いない
 これも作者に注目したメタ要素です。ここでは絵が盗作や違法なトレース、パクり等でないという信頼性を作者のプロフィールから導き出しています。そしてこの人は、その安心感があって初めて素直に作品を楽しめるタイプの人なのでしょう。
 ネット上での付き合いでは、見える範囲での情報だけで判断してしまいがちですが、それは早計というものです。確かめる方法はありませんが、フォロワーが多いからと言ってトレスなどをしないという根拠には当然なりませんし、仮にズルしない真っ当な絵描きだったとしたら、フォロワーが多いから素晴らしい絵なのではなくて、素晴らしい作品を作れるからフォロワーが多いのでしょう。因果関係が逆ですね。この広い世の中ですから、フォロワーの多い人が描いたから良いものに見えると言う人も当然いるのでしょうが、個人的には嫌いな価値観です。
 
 
 
・この脱出ゲームは素人の手作りだから、この謎の答えは単純であるに違いない
 本来知られるはずのないゲームの作者を知っている場合のメタ推理です。ただクリアすることだけを望む人にとっては効果的な推理なのかもしれませんが、雑念を振り払ってゲームに没頭したい人にとってこれは悪のメタですね。もしこの情報を聞きたくないという人に聞かせる人がいたのなら、それは最悪の迷惑行為です。一言で言うとネタバレと同罪です。また、楽しませてくれようとしている作者に対しても失礼な態度ですから、個人的には嫌いなメタ推理です。
 余談ですが、私は作品を楽しむ際に作者が受け手に期待している受け取り方を推測して素直にその通りに作品を楽しむことにしています。作者の思考を上回ったり、先読みする楽しさも分かりますが、私は楽しく騙されたり驚きたいのです。逆に、そうさせてくれない作品はつまらない物に感じてしまいます。
 
 
 
この対戦ゲームで現状一番人気で強いとされるキャラクターはAなので、Aの対策を軸に戦略を考える必要がある

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 これは変化していくゲーム環境に対するメタ戦略です。これはそもそも、相手もその手札もなんの情報も無く、ただ漠然とした『環境』というモヤのかかった体感や統計のデータを元に戦略を練るところから勝負が始まっているため、メタ要素を考えないことには勝負になりません。十分な準備をしないことには、自分も相手も退屈な時間を過ごすことになるでしょう。
 
 
 
人狼ゲームにおける、「Bさんは初心者だから嘘はついていないだろう」「Cさんは人狼ゲームをたくさんやってきた熟練者だから、まさかそんなヘマをやらかすわけがない」等の推理

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 これはゲーム外で知っていた情報をゲーム内の心理戦に持ち込むメタ推理です。これはかなりの場合において悪のメタです。なぜなら、メタ要素を取り入れてしまうと、人狼ゲームでは自由度が大幅に低下してしまいます。例えば、数人の友達グループで人狼をするとなったとき、1人だけ飛び抜けて頭の回転が早い人がいたとしましょう。人狼ゲームは心理戦ですから、そういう人は強いのです。ただ、その理由を持ち出すと、全ての推理や行動にそのことを取り入れる必要があります。「あいつは頭がいいが敵だから今すぐ殺そう」「あいつが敵か味方か分かれば安心出来る。味方だったら守り、敵だったら殺そう」といった具合に、安定行動(もしくはその時一番価値の高い行動)が自然と決まります。こうなると、この人はゲームの度に早期から自分のことを調べられ、ほぼ毎回危険にさらされるでしょう。そうなるとその人はつまらないですし、極論を言うと、最初の一連の流れは固定なんだからそもそもやらなくていいということにもなってしまいます。それではゲーム性というものが損なわれるため、ゲームをやる意味が無い。だからこのメタ推理は封印しなくてはいけないのです。
 ただし、ゲームに参加する全ての人がメタ推理を許し、逆に上手く活用するなんらかのスタイルでゲームをすると事前に取り決めた場合など、限定的な状況下でならこれは善のメタとなるでしょう。
 
 
 
・ポーカーにおける、「相手は絶対的な自信があるときにしか大勝負に出ない性格だ(ということを事前に知っている)から、今の相手の手札は弱い手札だ」という推測

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 これは判断が難しい場合が多いですね。ポーカーは賭け事を連想する人が多いと思います。その場合、遊びではないのですから、メタ要素を検討するなど出来る限りの手を尽くすべきでしょう。
 遊びのポーカーであっても、人狼ゲームとは違ってメタ要素を取り入れたところで確実な勝利やアクションに繋がることはあまりないです。そのため、多少のメタ推理はいいのではないかと私は思います。メタ推理をした場合も、相手に言わなければ「素晴らしい心理戦だった」「いい勝負だった」と気持ちよく終われるはずです。
 また、ポーカーフェイスという言葉がありますね。これは、感情を表情に出さない無表情なようすのことを表す言葉ですが、この語源はもちろんポーカーです。素晴らしい手札を見て思わず顔が笑ってしまったら、相手はその表情を読み取り、勝負を降りたりなんらかの選択の材料とするでしょう。だから、ポーカーでは無表情に徹するべきなのです。そこからポーカーフェイスという言葉が生まれました。
 これらのことを総合すると、ポーカーとは『メタ要素を相手に与えないようにするゲーム』なのだと考えられます。さらには、メタ要素を与えないことにも意味を見いだせます……と、堂々巡りになってしまいますのでここら辺にしておきますが、要するに心理戦を楽しむゲームということですね。ポーカーに限らず全てにおいて言えることですが、お互いに楽しめれば何でもOKだと思います。
 

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・このアイドルのファンは過激な人間の割合が体感多いので、本人にもきっと通じる部分があるのだろう。
 これはあまり好ましくないメタ推理です。ですが、一概に間違っているとは言えません。本当にこの因果関係が成立する可能性もあります。物事を多面的に分析する際には、こういった視点も必要になることもあるでしょう。ですから、こういう推理をするのは構いませんが、それを信頼に足る事実のように吹聴することだけは絶対にしてはいけません。他の情報と組み合わせて、この情報に確信が持てる時だけそういうことが言えるのです。
 また、万が一その推理が正しかったとしても、あまり大きな声で言うべきことではないと思います。真実や正解とは、知らずにいた方が幸せでいられることも多いですから。
 
 
 
・この人のことはよく知らないが、好きなゲームに低年齢層からの人気の高いものを挙げていたので本人の精神年齢も低いのだろう。
 これはほぼ確実に悪のメタ推理ですね。まず経験的に、低年齢層から人気の作品は『民度が低い』というのは程度はどうであれ少なからずあるでしょう。ファンのマナーの悪さというのは個々人の問題ではありますが、集団をひっくるめて評価するとなると、年齢というわかりやすい共通項から推測するしかありませんし、恐らく統計的にも間違ってはいないでしょう。低年齢層がその分野において十分な教育をなされる時代が来れば話は別ですが。
 さて、集団についてはそれでいいとして、個人は別です。その人が属するグループの評判が好ましくないとしても、必ずしもその人がその特徴を有するとは限りません。これも先程の例と同じで、ある程度の推測には使えますが、あくまで判断材料のひとつでしかないのです。その域を超えると、『先入観』になってしまいます。こういった問題は必要条件・十分条件を意識すると間違いに気付きやすいです。
 
 
 
・このゲームは運営の姿勢が自分に合わないので素直に楽しめない
 多くのオンラインゲームユーザにとって大いなる存在であり、別の世界の住人のようでもある運営(あるいはゲームマスター)という存在も、中身は私たちと同じ多くの人間です。ですから当然、思想の食い違いなども発生します。客商売を推奨されそうな立場ですが、自分の意見や姿勢を突き通し、ユーザについて来させる運営方式を取るゲームもあるでしょう。それは仕方ないことです。また、ゲームの内容に直接の影響が無かったとしても、その外側で何らかの不快感をユーザが被ることがあれば、それも仕方の無いことでしょう。人付き合いと同じ次元の話だと私は考えています。
 
 
 
・漫画やアニメ、ドラマ等の登場人物による「これは漫画だから、この後には劇的な展開が待っているさ」というような発言

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 古典的なメタ発言ですね。基本的には善のメタですが、作品の世界や没入感を大切にする人の目には悪のメタとして映るかもしれません。大抵は作者の遊び心であって作品そのものに影響を与えるものではないのですが、実はこの人物は本当に自分のいる世界を漫画の世界だと認識していた!だとか、そう思い込んでしまうなんらかの精神病を患っているだとか、そういう展開に持っていって読者を驚かせるというケースもあります。所謂、叙述トリックの類ですね。
 この叙述トリックですが、基本的には小説などの文字媒体の用語です。これは、文章で読者を誤ったそれらしい正解へと誘導しておきながら、隠された真の解釈こそが真実だったと明かす技法です。視覚情報が少ない文字媒体だからこそ成功しやすいものですね。この叙述トリックですが、これは作者から読者への挑戦状のようなものです。または、トリックやトラップとでも呼べるでしょうか。まあ、楽しく騙されたい私にとっては最高のおもてなしなわけですが。それは確かに作品の一部ではありますが、作者は作品そのものよりも、その向こう側にいる読者を意識して書いていることが多いでしょう。たとえ素直に筋書き通りに文章を整えたとしても、読者を楽しませるために、読者に悟られないようにと文章を推敲するはずです。その作品には明らかに作者の意図が介入しているわけで、その介入を認めないことにはその作品を十分に楽しむことは難しいでしょう。なんだかメタ要素に近いものを感じますね。ですが、それを悪質なメタ要素として糾弾する人を私は見たことがありません。やはり、作品を評価する上で作者の存在は切り離さずに考えても良いものだと考えることが出来ますよね。少なくとも、叙述トリックを含む作品については言えるはずです(作者の他の作品を知っているという、作者既知のメタに関してはまた別ですが……)。
 話しが逸れまくっていますが、叙述トリックをメタ要素の一種だと思って、これの是非についても考えてみましょう。叙述トリックを含む作者から読者への騙し行為が歓迎されるのは、読者が「騙されたけど、興奮した」「びっくりしたけど、結果的にあれはよかった。面白かった」などの感想が出るような、上手いこと騙せたパターンでしょう。逆に、騙し行為が嫌われるのはどんな状況でしょうか?これはもう簡単ですね。そう、つまらなかった場合です。そんなことを言い出したらこれまで挙げてきた例についても言えるじゃないか!と思われるかもしれませんが……ええそうです。これまで私は基本的にそういう話しかしていません。ですが、騙し行為には特筆すべきことがあります。それは、『ハマるととても強いが、ハマらないととてつもなく弱い』ということです。要するに、騙し行為は大技なんですね。皆さんも一度はなんらかの作品で目にしたであろう、サプライズバースデーパーティというシチュエーションの例がわかりやすいでしょうか。あの手のお話は大抵は仕掛け人がターゲットにバレないように誕生日会の準備をして、その不審な様子にターゲットが顔をしかめるような導入から入り、ターゲットはそういった場面をいくつも目にして「自分が仲間外れにされている」と誤解してしまいます。そして最終的には種明かし……もとい誕生日会が無事に始まり、ターゲットは「なーんだ勘違いだったのかよかった」と笑って終わり、という筋書きになります。これに類する例としてドッキリ企画等もありますね。もうお分かりでしょうが、この類は失敗することがあります。種明かし前に全貌がターゲットにバレてしまうパターンならまだいいですが、隠されたり騙されたこと自体や、それにより発生した負の感情等がサプライズの喜びに勝り、結果的にターゲットにとってマイナスなイベントとして終わってしまった時の後味の悪さは想像したくもありませんね。だから騙し行為とは、100か-100かの大技みたいなものなのです。これは作品においても同じです。特に、1枚の絵画などよりもストーリーのある文字媒体の作品においてありがちな失敗パターンですね。それまで堅実な面白さを発揮していた作品であっても、その失敗ひとつで駄作と評価されてしまうことがあります。それは作者の力量不足によるものがほとんどですが、その一時の過ちは許さなくてはなりません。受け手が騙し行為を否定し続けると、作家界隈(特に二次創作において)は萎縮し、騙しのある作品が生み出される頻度が落ちます。そして、当たり障りのない作品が蔓延り、最高打点が更新されにくくなるでしょう。作り手は受け手の反応に左右されずに自由に作るべきであり、受け手は好き嫌いは別として、作品の多様性を認める姿勢を持つべきでしょう。他人の作品は批判するのではなく、黙ってそれが存在することを許しましょう。「上達のために教えてあげよう」と思っても、頼まれていない限りは黙っておきましょう。あなたに好き嫌いがあるように、その人にも好き嫌いがあるのですから。
 

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作り手は、理不尽な意見だけを都合よくシャットアウトする目と耳を持てると最強ですね

 

 これまで長々とメタ要素を軸に語ってきました。皆さんそれぞれ、共感できる部分もそうでない部分もあったことでしょう。ですが、それでいいのです。これらは全て私の主観と、私の主観による客観視に基づいた文章でしかなく、そこに"正しさ"はありません。ですが、作品とはそういうものです。この記事は小説でも絵でもありませんが、私の作品とは呼べるものでしょう。私を知っている人と知らない人とで、この文章から受ける印象も信頼も違うでしょう。その感覚を大切にしてください。それがあなたの主観による評価です。
 
 
 
 

作品を最大限楽しむために

 主観による評価だけを頼りにしては、人とコミュニケーションを取る上では最悪でしょう。主観だけで行動を決定しているあなたは他人から見て自己中心的で関わりたくない人物だと認識されるでしょうね。ですので、他人と合わせたり、流行を意識したり、集団に迎合するために自分を抑えたりする訓練を義務教育課程などで私たちは教えられてきました。それ自体は間違っていませんが、優れた作品を作ったり、受け取って楽しむ上では主観による評価こそが絶対的に素晴らしいのです。少なくとも、自分にとっては。

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作品の『需要』と『価値』

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 下手だったらダメなのでしょうか。有名なアーティストが良いと言ったら良いものなのでしょうか。100人中99人が駄作といったら駄作なのでしょうか。作品の価値は誰が決めるのでしょうか。ここまで読んできた皆さんならお分かりでしょう。当然、各々が決めるのです。
 例えば、芸術作品に値段がつく時、何が基準となるか、知っていますか?様々な要因がありますが、一言で言ってしまえば『需要』です。需要がある作品ほど価格はあがります。これは、『価値』とは違います。適当に引いた線でできた落書きみたいな作品であっても、誰かが1億円で買うと言ったら1億円ですし、オークションだったら言うまでもなく、競争が発生して値段がつり上がったりします。
 対して、『価値』とはその作品を作るのに使われている技巧だとか、使っている画材の材質だとか、精巧さといった、絶対的な評価に最も近い指標により決まります。『はじめに』において私が言った『純粋な絵の評価』というのが、言い換えれば絵の『価値』にあたると考えてください。
 では、作品を作る上で、あなたは何を目標にするのでしょうか。『値段(需要)』が上がって欲しいのですか?それとも、『価値』を上げたいのでしょうか?そのどちらでもなく、ただただ採点者が自分1人だけの作品に100点満点を与えたいのでしょうか。目的が違えば、当然そのためにするべき行動も違ってきます。創作活動をするならば、まずは目的を明確にしましょう
 
需要を高めるには

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 値段(需要)を上げたい人は、一般的な商売を意識するべきでしょう。例えば、あなたがスーパーを利用する際、目的の売り場を店員さんに尋ねて無視されたらどう思いますか?十中八九いい気分にはならないでしょう。人によっては、もうそのお店を利用しないとまで思うかもしれません。売り手は、買い手(クレーマーは含まれない)がどんなに気に入らないタイプの人間であっても、誠意を持って接しなくてはならないのです。
 同じように、自分の作品の値段を上げるためには、自分の作品に触れる人達に対して、(将来の)買い手だと思って接するべきでしょう。そして性格を問わないできるだけたくさんの人に好かれることが、自分とその作品の値段を上げる1番の手段なのです。これは、ただ作品を売ることだけでなく、SNS上での『いいね稼ぎ』などにも通じる手法ですね。どのケースでも言える分かりやすい言葉が『需要』なわけです。
 

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当然、自分のやり方を貫きつつ大衆受けを狙いたいという人もいるでしょう
 脱線しまくった話が、ここで本筋に戻ります。自分の作品の需要を高めたい人は売り手意識を持って人と接するべきだと言いました。しかし、先程の話の中に作品そのものについての話は出てきていません。要するに、この需要の源もメタ要素なのです。メタ要素が作品評価の枠組みに入れられるのであれば、作者の常日頃の振る舞い……人生そのものも作品の一部であると言えるかもしれません。
 
 
価値を上げるには

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 次に、価値を上げるにはどうするべきかについても考えましょう。これはとにかく知識を付け、技術を磨くことです。しかし、ただ闇雲に練習するだけでは効率が悪くなります。勉強にスポーツに、なんでもそうですが、効率の良い練習というものは先人達が築き上げた知識や経験の土台を使わせてもらうのが定石です。教本や講座などを頼りに最初は模倣から始め、ゆくゆくはオリジナリティを出していくのが良いでしょう。これに関しては無数の教本や解説記事が存在しているので、ここで多くは語りません。各自自分に合った方法で技術を磨くと良いでしょう。
 また、値段と価値の話は独立しているものではなく、互いに関係があります。自分の作品の芸術的価値を高めることは、それにつく値段を向上させることに直接かかわってきますし、逆に値段を上げるために大事なのが人付き合いだからといって技術を磨くことを疎かにしていいことにもなりません。芸術でお金を稼ぐためには、両方ともほどよく意識するのがよいでしょう。
 
 
 さて、ここまで作品を売るだの価値だのと話してきましたが、私が話したかったのはこんな話ではないことくらい、ここまで読んだ皆さんならきっとわかっているでしょう。アートで富や名声を築き上げたいわけではないにも関わらず、自分の作品の値段や価値ばかりを追い求めたり、周りからの評価にとらわれすぎている人に自分が迷走していることを気付いてもらうためにお話ししたのです。
 
 

私が一番言いたいこと

それは世界中の誰よりも自分を喜ばせる作品を作ってほしい」ということです。他人からの需要(値段)や価値が無くてもいい。自分自身がその作品と、それを作り出す行為そのものに満足できればそれでいいのです。もちろん、自分が好きで作った作品を他人に認めてもらえたり喜んでもらえたらそれはうれしいでしょう。しかし、人の数だけ考え方や好みは違うものですから、なかなかそうもいきません。しかも今の時代、誰もがクリエイティブな活動をできるのですから、人々の見る目が肥えてきています。そんな中、自分の好きなものが他人と共有できたらそれは奇跡のようなものなのです。
 

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嘘偽りない自分の表現を認めてくれる人がいたとしたら、それは本当に素晴らしい出会いだと思います。
ですが今の世の中、ネット上で自分と同じ趣味の人間を探すことはさほど難しいことでもありません。ネットが無い時代であれば、同好の士と出会うことも今ほど簡単ではなかったでしょう。今の時代は便利すぎるが故に同士が周りにいることが当たり前になっていて、そのありがたみを忘れてしまっているのです。それゆえに、その同志が自分の作品を評価してくれないことに勝手に失望したり、自分自身を必要以上に責めてしまったりする人がいます。気持ちはわかりますが、自分の中にある前提が間違っているということに気付いてください。自分とまったく同じ人間はこの世に1人たりともいません。自分のために作った作品を自分以上に楽しめる人間は他にいないのです。
 そういうわけですから、自分が表現したものを他人に理解してもらえなくても当然くらいに思っておけばいいのです。そう簡単に割り切るのが難しいという人でも、他人から好意的な評価をもらえないことを理由に自分が本当に作りたいものをあきらめないでほしいと思っています。
 

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私は自分のやりたいことに正直でまっすぐで健気な人が好きです
 
 
 
 

まとめ

・何においても大事なのはなるべく他人に迷惑をかけずに自分が楽しむこと
・作品は作者等のメタ要素も含めて評価していい(嫌がる人もいるので直接言うのは避けましょう)。
・自分にとって気に入らない作品でも、黙ってそれが存在することを許すべき。
・創作活動をする目的を明確にするべき。
・自分が楽しむための創作活動をしてほしい。
・世界中の誰よりも自分を喜ばせる作品を作ってほしい
 
 

終わりに

 長くなりましたが、これで終わりです。もう一度言いますが、この記事はほぼ私の主観で書いています。その正しさとか、間違いだとかに私は責任を持てません。また、書いてあることが正しいと感じたとしても、自分がそれに従いたくないと思うのであれば、その人にとってはそれでもいいのかなとさえも思います。
 本記事で、『作り手』と『受け手』という表現をした部分がありますが、これは人々を完全に二分するものではなく、誰もが両方の性質を持ち、時と場合によってどちらにもなり得るということを忘れないでください。今現在創作活動をしていない人も何かを作った経験はあるでしょうし、これから作り手としての活動が本格的になる可能性だってあります。作り手として熱心に活動をしている人も、作品を楽しむ時は受け手なのです。誰もが両者の視点を理解できるという意識を持つことが、大勢にとっての幸せに繋がると思います。
 創作活動は楽しい部分もたくさんありますが、大変な部分もまた多いです。運悪く後者にばかり触れてしまった人や、それによって創作活動が楽しくないと感じてしまった人がこの記事を読み、ちょっとした気づきや考え方の転換によって心が軽くなったと感じていただけたら何よりも嬉しく思います。
 これから先、より多くの人が自分の主観を第一に信じて楽しく創作活動をしてくださることを願っています。ここまで読んでくださりありがとうございました。
 

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Thank You!



 
 
TCU-CTRL場外乱闘 Advent Calendar 2019、次回は腹痛の記事です。個人的にとても楽しみです。

*1:メタ - Wikipedia